一木一草、菊、鳳仙花

先日、地元近くを散歩していると石碑が目に入った。近づいてみると、「皇紀二千六百年記念」と刻まれている。愕然とせざるを得なかった。というのも、この石碑がある場所は、いわゆる被差別部落だったからである。おそらく1940年の「紀元二千六百年記念行事」の中で建てられたのだろうが、被差別部落の人々が建てたのだろうか。それ以外の人が建てたのだろうか。いずれにせよ、この石碑は今日に到るまで誰にも破壊されることなく残っていた。

それで思い出したのは、中上健次紀州――木の国・根の国物語』のある一節である。これは中上の故郷・紀州の彼自身によるルポルタージュである。中上は天満の木下ゆきえという人の家を訪れ、あるものを目にする。

山そばの一段高くなったところに二階建てのアパートが二軒見えた。空き地の中にある物置ほどの小さな家に、五十九歳の木下ゆきえさんはいた。独りずまいのゆきえさんには滅多に訪ねて来る者もいないらしく、蒲団を敷いたままだった。門先に立って、天満の話をきかせてくれと言う私に、訝しげではあるが、それでも体の具合が悪いからと敷いたままの蒲団を弁解し、折りたたみはじめた。タンスがあり、テレビがある。タンスの上には天皇家の家族団欒の写真が額に入れて飾ってある。(...)ゆきえさんは被差別者だった。だが、話をそこにむけてもそらすゆきえさんは、自分の中にある非差別者の血にすがりたい。実際、そうなのだった。(中上健次紀州――木の国・根の国物語』、角川文庫、2009年、33-34頁)

被差別者である彼女が天皇家の写真を飾っているということ。聖と穢の混交。僕は先の石碑を見たとき、この一節を想起せざるを得なかった。竹内好の言葉を借りれば「一草一木に天皇制がある」(「権力と芸術」『現代芸術』第二巻)ということだろうか。被差別部落でさえも。

草は草である。そう思い、草の本質は、物ではなく、草という名づけられた言葉ではないか、と思う。言葉がここに在る。言葉が雨という言葉を受けて濡れ、私の眼に緑のエロスとしか言いようのない輝きを分泌していると見える。言葉を統治するとは「天皇」という、神人の働きであるなら、草を草と名づけるまま呼び書き記すことは、「天皇」による統括(シンタクス)、統治の下にある事でもある。では「天皇」のシンタクスを離れて、草とは何なのだろう。(中上健次同上、201-202頁)

「「天皇」のシンタクスを離れて、草とは何なのだろう」・・・。竹内好の「一草一木に天皇制がある」というテーゼは、こうした意味で理解されなければならないのではないか。言葉を統治し、敬語体系の頂点に君臨するのが天皇である限りで、「天皇制は、日常的、直接的にはまず言葉遣いの問題」(鵜飼哲『まつろわぬ者たちの祭り――日本型祝賀資本主義批判』、インパクト出版会、2020年、253頁)だからである。

2ヶ月ほど前、「国葬を考える」というシンポジウムが開かれた。石川健治片山杜秀國分功一郎白井聡、三牧聖子、山口広が登壇した。「一草一木」に隠れた天皇制は、彼等の言葉遣いに如実にあらわれている。

憲法の定める国事行為ではなく、被災地訪問や戦没者慰霊など象徴としての行為に照準を合わせた天皇陛下の「お言葉」は、よく考え抜かれたメッセージだった。国事行為は摂政や臨時代行で対応できるが、象徴としての行為は代行がきかない。象徴の務めを高齢ゆえ耐えられないと述べられた以上、退位の可能性を探るしかない理屈となる。(石川健治天皇退位 議論のあり方、私の考え(4): 日本経済新聞

片山杜秀島薗進との共著『近代天皇論』(集英社新書)については、鵜飼哲の記述を援用する。

この本は帯の表に天皇の写真が出ています。二人の著者の肖像は裏にあるという、実に不思議な作りです。こうした外観を示す本が平積みになっている。しかもその内容には、私たちと同じように日本会議の暗躍を非常に憂慮する姿勢が示され、この組織の危険性について、とても有益な情報が多々含まれてもいます。ところが最後には、天皇のメッセージが全文掲載されていて、「民主主義を救う鍵が『お言葉』に」となる・・・・・・。(鵜飼哲同上、253-254頁)

白井聡國分功一郎については二人の対談を引用する。

天皇のお言葉に秘められた「烈しさ」を読む | 読書 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

國分:テレビを見ていて、動けなくなりましたね。僕は天皇について考えたことがあまりに少なかったので、白井君のような言葉は思いつきませんでした。しかし、言われてみれば、自分も天皇の姿に烈しさを感じていたのではないかと思います。白井君は『国体論』を通して、人々が感じ取っていたものに言葉を与えてくれたのではないでしょうか。僕は天皇制全般については立場が定まらないところがあるのですが、白井君の言葉を借りるなら、今の天皇に人間として共感しているところはあります。たとえば、今の天皇ほど熱心に福島を訪問している人はいませんよね。小泉進次郎氏が何度も福島を訪問していると言われていますが、元南相馬市長の桜井勝延氏にお会いしたとき、小泉氏は桜井氏のところには一度も来たことがないと言っていました。天皇のやっていることはこうしたパフォーマンスとはまったく違います。

白井:もちろん『国体論』を書きながら、天皇とどのように距離をとるべきか迷ったことは事実です。ただ最終的に吹っ切れたのは、これは究極的には割に単純な話ではないかと思ったからです。今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。沖縄の問題ひとつとっても、なぜ今日、国民統合の危機が深刻化しているのかを突き詰めると、特殊な対米従属の問題、つまり戦後の国体がアメリカを頂点にいただくものになったことによる歪みの問題に行き着きます。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。お言葉を否定するならそれも1つの考え方です。しかし、その根拠として挙げられたもののうち、お言葉よりも強力に心を動かすものは、私には見当たらない。

彼等の議論はあまりにも杜撰であるため、いくらでも批判可能である。「お言葉」「今上天皇」という語を用いている事。「護憲派」であるにもかかわらず「お言葉」が政治的に機能し、2017年に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が実質的な審議を経ないままに参議院本会議で可決成立した事実を無視し、あろうことにもそれを「民主主義を救う鍵」としている事。アキヒトの福島訪問をあまりにも素朴に受け取りそのパフォーマンス性=スペクタクル性を否認している事。日米に従属を強いられてきた沖縄を天皇制擁護のダシに使っていること。対米従属という図式に囚われるあまり、日本がアメリカの「ジュニアパートナー」(白石隆)「下請けの帝国」(酒井直樹)「抑圧のエージェント」(塚原東吾)として沖縄などに対する構造的差別に積極的に加担してきた歴史(すなわち、沖縄の従属は、日本の対米従属の結果などではなく、日米合作の結果である)を等閑視し、日本を免責しようとしている事。それはひいては、アキヒトの戦争責任を免責することにも繋がるだろう。いちいち説明するのも馬鹿らしいが、カントロヴィッチの『王の二つの身体』のかの有名な図式を借りれば、天皇制は「政治的身体」である(カントロヴィッチが前提としているのはヨーロッパの王国における君主であり、天皇と地位は異なるが、「君が代」という国歌や「君国」という言い方からも明らかなように天皇は君主的なものとみなされている)。「万世一系」とはそういうことだろう。しかしヒロヒトとアキヒトを区別し、後者の「プロ市民」的身振りを称揚するのは「自然的身体」の論理に拠るものである。「政治的身体」である天皇制を「自然的身体」の論理で擁護するのは、論理的に破綻していると言わざるを得ない。いずれにせよ、天皇制が「万世一系」ならば、戦争責任も「万世一系」である。「国民統合の象徴」として「国民」なるものを実体化し、「国民」と非「国民」を分け、排外装置として機能している天皇制を称揚する彼等に、沖縄問題に言及し、「戦後の日本がアメリカの支配の中で受け取った価値観は、自由主義でも民主主義でもなく、結局のところ近隣のアジア諸国を差別する権利だったわけです」(https://toyokeizai.net/articles/-/229556?page=4)などとほざく資格はどこにもない。そもそも、ここでは日本の人種主義が戦後、アメリカに与えられたものであるかのように議論が進んでいるが、では、戦前のアイヌモシリ、琉球王国の侵略に始まり、戦時中のアジア諸国に対する過酷な植民地支配は何だったのか。「欧米人に対するコンプレックスと同時にアジア人に対するレイシズム」を利用したのは他ならぬ天皇制であろう。それは、「近代の超克」をめぐる言説を見ても明らかである。

国葬を考える」シンポジウム登壇者6人の内、4人が「尊皇」の立場を取っていることはあまりにも徴候的ではないだろうか。しかし、こうした議論を展開している者たちが左派を自認してフランス現代思想(「68年5月の思想」!)やレーニンを研究し、安倍の国葬に反対し、自民党とカルトの癒着を憂慮している事(しかし、自らの天皇制という日本最大のカルトとの癒着は問うことができないようである)をどう考えれば良いのだろう。アキヒトを担ぎ上げなければ右派や改憲派に抵抗することができないほど、彼等は理論的・政治的に後退してしまっているのである。

「一木一草に天皇制はある」・・・。中上健次はこう述べる。

この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった。現実政治や団体としての「右翼」ではなく、そのまま何の手も加えないなら文化の統らぎであるという天皇に収斂されてしまう感性の事である。(中上健次同上、195-196頁)

もはや今日では、「日本の小説家」という部分を、「日本人」と言いなおさなければならないようである。

一木一草と菊を焼き尽くすほどに赤く身を染めた鳳仙花――。その花はまだ、この国に咲いているのだろうか。

JアラートとTiktok、あるいは〈距離〉の身体と政治のために

Jアラートと恐怖による統治
11月3日、北朝鮮がミサイルを発射したことを受け、日本政府は地方自治体などに緊急情報を伝える全国瞬時警報システム(Jアラート)を稼動した。
北朝鮮にミサイルを発射するよう仕向けているのは誰なのか・何なのか考えることもなく(言うまでもなく日米韓による合同軍事演習であるがなぜその程度のことがわからないのか)、挙句の果てにはミサイル発射を口実に在日朝鮮人朝鮮学校の生徒たちに恫喝を行う日本人の想像力の欠落、思慮の浅さには呆れるほかないが、ここで論じたいのはそうした事ではない。
Jアラートは既に指摘されているように(Jアラートを国会に設置する意味とは 続く北朝鮮のミサイル発射に「着弾したら終わり」の声も:東京新聞 TOKYO Web)、機能的に欠陥を持ったものである。北朝鮮のミサイルが日本上空(実際には高度2000メートルの宇宙空間)を通過したのは7時48分。Jアラートが発されたのは7時50分である。使われている兵器がミサイルである限り、たった2分の遅れでも避難は不可能だろう。では、なぜ安全保障装置としては失敗作でしかないJアラートを日本政府は存置し続けるのか。それは、日本政府は安全保障に失敗することによって別の事に成功しているからである。フーコーの言葉を借りれば「権力は失敗して成功する」。では、何に成功しているのか。「恐怖(テロル)による統治」(酒井隆史)であり、クラウゼヴィッツのテーゼを転倒させた、「別の手段による戦争の継続」に、である。
ポール・ヴィリリオは、『戦争と映画』において以下のように述べている。
戦争は、人の眼を欺く見せ物と切り離せない。こうした見せ物を作りだすこと自体が戦争の目的であるからだ。敵を倒すというのは、相手を捕らえるよりもむしろ相手を威圧することであり、死の手前にあって相手に死の恐怖を体験させることなのである。(...)それゆえ演技行動を欠いた戦争などありえないし、心理的欺きに無縁な精密機械などもない。兵器とはただ単なる破壊装置のレベルで生じる化学的現象ないし神経学的現象によって存在があらわになる刺激装置であり、知覚対象への反応、その識別、あるいは他の物体との差異の認識などに影響を及ぼすものなのである。(ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』石井直志・千葉文夫訳、ユー・ピー・ユー、1988年、7頁)
ここでヴィリリオは、第ニ次世界大戦時にドイツで使用されたユンカース87という攻撃用急降下爆撃機を例にあげる。これは、攻撃目標に向かう際、「耳をつんざくようなサイレンの唸り声」をたてていたという。そうすることで、恐怖感によって敵を萎縮させるためである。ヴィリリオは、『速度と政治』『純粋戦争』などにおいては、こうした「別の手段による戦争の継続」としての科学技術、それによる身体や空間の消滅(空間から時間へ)といった問題について論じている。戦争の為の技術革新によってあらゆる空間が戦場となる可能性がある今日において、文民と軍人、兵站地域と前線の区別はつかなくなる。何故なら、「新兵器は軍備競争運動の中断を抑止するのであって、それらの生産をめぐる「兵站戦略」が宿命となる」(ポール・ヴィリリオ『速度と政治』市田良彦訳、平凡社ライブラリー、2001年、203頁)からである。「兵站戦略」の為に恐怖というスペクタクルが要請され、それが僕達の知覚・身体に働きかける。こうして「兵站」として「知覚が動員される」(ポール・ヴィリリオ、シルヴェール・ロトランジェ『純粋戦争』細川周平訳、ユーピーユー、1987年、231頁)のである。Jアラートもある種のサイレンとしてユンカース87と同じ役割を果たしている。すなわち、それはサイレン=アラートとして恐怖という見せ物=スペクタクルを演出するのである。それが防衛費増額の為の増税改憲を容易にすることは、言うまでもない。
 
Tiktokと瞬間性の君臨
ヴィリリオによればこうした「兵站戦略」の中心を占めるのが映画である。先に述べたように「兵站戦略」は知覚に働きかけ、「兵站」として知覚を動員するが、映画のような映像技術の進化と僕達の知覚の変容は切り離すことができない。ヴィリリオは映画史をふり返ってこう述べている。
映画の歴史をふり返ってみると、はじめは時間が拡大する方向にあるのに(たとえばアベル・ガンス)、六〇、七〇年代以来縮小し、内的緊張の方向に向かっていることがわかります。ヴィデオ・クリップ、TVのコマーシャルなどはその最たる例です。(『純粋戦争』230頁)
この映画の歴史は、ニコニコ動画・ユーチュブからtiktokへというインターネットメディアの歴史にも当てはまる。ニコニコ動画youtubeにおいては数分~数十分の動画が主流を占めている一方、tiktokにおいては数秒~数十秒のものが多い(youtubeも「ショート」機能によってtiktok的メディアへと姿を変えつつある。また、"インスタ"グラムを想起しても良いだろう)。こうしたインターネットメディアにおいて時間の概念は歴史=持続から瞬間・緊張へとその姿を変える。
歴史=持続から瞬間・緊張への時間概念の変容は、今日の新自由主義の猖獗とも無縁ではない。フランシス・フクシマのかの有名な「歴史の終わり」のテーゼ以降、世界各地の経済体制の新自由主義化が本格化した。「歴史の終わり」とは歴史=持続の終焉であり、瞬間としての時間の到来である。Jアラートやtiktokといった「兵站戦略」は、先にも述べたように、「別の手段による戦争の継続」にほかならないが、これがクラウゼヴィッツのテーゼの転倒であるという意味で、そこでは「政治」が抑圧される。もはや戦争はクラウゼヴィッツが言ったような「別の手段による政治の継続」ではないのである。グレゴワール・シャマユーは『統治不能社会』において新自由主義権威主義自由主義に他ならず、そこでは政治が抑圧されることを喝破した。更にシャマユーは権威主義自由主義がシュミットとハイエクアマルガムである事を明らかにしているが、ジョルジョ・アガンベンが繰り返し述べているように、カール・シュミットの議論と緊急事態(=「例外状態」)という瞬間的時間は切り離すことができない。tiktokによる瞬間性の君臨、Jアラートという恐怖のスペクタクルによる緊急事態(=「例外状態」)の演出によって政治は引きずり下ろされることとなる。
政治の終焉は歴史の終焉でもあります。瞬間の強度が問題となる超政治的ヴィジョンに入りつつあるのです。(...)瞬間の質が重要であるような内へ収縮するような(強度=緊張の)時間、緊急事態。(『純粋戦争』130頁)
恐怖というスペクタクルによって緊急事態を演出するJアラートと、tiktokのような瞬間的メディアの普及は相即しているのである。
 
〈距離〉としての身体と政治
政治=ポリスが引きずりおろされるとき、都市=ポリスという空間が消滅する。廃墟と化したポリスには、安全保障を司る(と自称する)警察(=ポリス)が跋扈する。しかし、彼等は何を守っているのだろうか。
安全保障という「兵站戦略」の中心を占める映画の歴史、ひいては映像技術史を遡って行き着くのが、カメラ・オブスクーラである。ジョナサン・クレーリーは「近代化する視覚」においてこう述べている。
カメラ・ オブスクーラは、科学者にとっても、芸術家にとっても、経験主義者にとっても、合理主義者にとっても、何よりもまず客観的真理に 近づくことを保証する装置であった。カメラ・オブスクーラは、経験的現象を観察するモデルとしても、反省的に内観や自己観察をするモデルとしても重要だったのである。(...)デカルトにとってカメラ・オブスクーラとは、観察者が「もっぱら精神の知覚によって」世界を知る方法を説明するものであった。(…)カメラ・オブスクーラは、世界をありのまま客観的に見ることを土台として知を築こうとするデカルトの探求に、ぴったり合っている。カメラの孔は、数学的に規定される一点に対応している。そして、その一点から世界は論理的に演繹され表象される。自然の法則(すなわち幾何学的光学)にもとづくカメラ・オブスクーラは、こうして世界に対する絶対確実な視点を与えてくれた。身体に左右されるほかない感覚的証拠は拒否され、この単眼用の機械装置によって作り出された表象こそが、疑う余地なく正しいものとされる。(クレーリー「近代化する視覚」『視覚論』槫沼範久・柴田元幸訳、テオリア叢書、2002年、55-59頁、強調引用者)
「身体に左右されるほかない感覚的証拠」を拒否するカメラ・オブスクーラは、マーティン・ジェイがいうところの「デカルト的遠近法主義」に他ならない。そこでは、「世界を〔客観的な〕知の対象とすべく、主体は世界の外側に位置し、歴史には属さず、中立的 で、身体を欠いたものと前提される」のである。(マーティン・ジェイ「近代性における複数の「視の制度」『視覚論』、31頁、強調引用者)
視覚文化論においては、カントの『純粋理性批判』による「コペルニクス的転回」以降、「視点の転換」が行われ、「カントの仕事の余波のなかで、観察者としての主体の透明性は、もはや後戻りできない形で曇ってゆく」とされる。それは、「可視的なものが、 カメラ・オブスキュラの無時間的秩序を逃れ、人間身体がもつ不安的な生理機能と時間性とい う新たな装置のなかに埋め込まれることになる瞬間なのである」。身体を持たない透明な主体から、身体を有する不透明な主体へ。(クレーリー『観察者の系譜』遠藤知巳訳、以文社、2005年、110-112頁)
美術史においてはこうした「視点の転換」が印象派の仕事につながっていき、表現主義構成主義、そしてキュビズムなどに到るのは周知の通りである。またクレーリーらの議論においては身体性を抹消するとされていたカメラ・オブスクーラにしても、ロラン・バルトの『明るい部屋』などを見れば明らかなように、少なくとも「それは=かつて=あった」ものとしての事物や身体と結びついていた。
しかし、インターネットメディアの誕生は、こうした美術史や映像技術史を逆行させるものに他ならなかった。すなわちインターネットメディアは、「デカルト的遠近法主義」を復権させたのである。
こうした議論は、カール・シュミットマルティン・ハイデガーのような右派からであれ、あるいはアンリ・ルフェーブルなどの左派からであれ、既になされてきている。しかし、ここで僕は彼等の疎外論的な議論構成に与するつもりはない。彼等が目指しているのは「大地」(シュミット)であれ、「故郷」(ハイデガー)であれ、「都市」(ルフェーブル)であれ、直接性の復権である。しかし直接性とはまさしくインターネットメディアがもたらしているものではないだろうか。インターネットメディアというハイパーパノプティコンによって自身の身体とそれが眼差し、知覚するものとの距離=間接性が失われたからこそ、僕達は直接性のもとにあらゆる光景を享受することが可能となった。しかしそれは同時に、距離=差異を抹消することによって僕達の身体と対象を同一化させた。身体と対象の距離が失われたとき、見ることは自明なものとなり、身体は見ることをやめる。僕達は何かを見ているが、しかしその実、何も見ていない。それ故、技術による直接性の疎外という図式は、インターネットメディアとの共犯関係に終始する。
僕達に残された道は、インターネットメディアを廃棄することではなく、その中に間接性を取り戻すこと、すなわち、身体や眼差しと、スマートフォンやPCのスクリーンの間にあるかなきかの微かな距離を再び取り戻すことである。
その為には、デカルト的主体の外に別の主体を擁立するのではなく、デカルト的主体を――もはやクリシェと化してしまったこの語をあえて使うならば――「脱構築」しなければならない。以下に見ていくように、実のところ、デリダに先んじてデカルトを「脱構築」したのは、他ならぬ、デリダの最初の「脱構築」の対象となったフッサールであった。
フッサールは『デカルト省察』のとりわけ第五省察において現象学独我論であるという批判をかわすため、他者論を論じているが、そこでフッサールは他者経験を以下のように記述する。
ここで次のように仮定してみよう。私達の知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初的に還元して言えば、私の原初的自然の知覚の場に或る物体が現れ、それは原初的な物体としてもちろん、単に私自身を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。この自然と世界のうちでは、私の身体が、身体(機能している器官)として根源的に構成されている。また構成されることができる唯一の物体である。だから、そこにある物体(他の人間)はなるほど身体として捉えられているが、それはこの(身体という)意味を、私の身体の把握からの転移によって得るのでなければならない。(...)私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、前者を他の(他人の)身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるというのは、初めから明らかである。(フッサールデカルト省察浜渦辰二訳、岩波文庫、2001年、198-199頁)
こうしたフッサールの議論は、たとえばレヴィナスなどによって「〈他〉を〈同〉に」、「外部性」を内部性に還元するものだとして批判されてきた。しかし、果たしてそうなのだろうか。デリダは「暴力と形而上学」においてこう述べている。
フッサールの最も中核的な肯定は、他者を他者として目指す志向性が不可避的に媒介的な性格を有していることに係る。(...)他者が、根源的な仕方で、ありのままに私に与えられうるなどということは決してなく、ただ類比的現前化によって自我に与えられるというのは明白である、(...)類比的準現前化に依拠することの必然性は、他の同への類比的で同化主義的な還元を意味するどころか、分離ならびに(非ー客体的)媒介の乗り越え不能な必然性を確証しかつ尊重するものだ。私が類比的準現前化の道を通って他者に達するのでないなら、私が無媒介的かつ根源的に、沈黙のうちに自己自身の体験との合一によって他者に達するのなら、他者は他者であることをやめるだろう。 (ジャック・デリダエクリチュールと差異』合田正人・谷口博史訳、法政大学出版局、2013年、242頁)
しばしば勘違いされているが、フッサールの議論において他者、あるいは対象が「根源的な仕方で、ありのままに私に与えらえれうる」ことなど決してない。それは彼の「射映」をめぐる議論を見ても明らかである。故にデリダはこう述べるのである。
視覚が根本的かつ本質的に内部性と外部性の非十全適合であることを、超越的で延長的な事物の知覚は本質からして永久に未完成であることを(...)フッサールよりも執拗に示そうと専心した者がいるだろうか。(『エクリチュールと差異』234頁)
視覚、知覚の明証性には実のところ、つねにすでに「射映」がはらまれている。それ故に「類比」が必要となるのである。「類比」は同化ではなく、むしろ異化に他ならない。すなわちフッサールの議論において身体とは直接性ではなく間接性として捉えられているのである。
この身体という空間性の問題は、言語の問題にもつながっている。レヴィナスは、〈他〉や「外部性」、すなわち他者の「顔」と「無限」を語る上では、空間的(!)隠喩を排さなければならないとする。しかし、デリダはこう述べる。
[では]なぜ、「外部性」という語(この語は、それがひとつの意味を持ち、代数的xではない以上、空間ならびに光と執拗に係わっている)をなおも使用しなければならないのか。(...)全体性の言語のなかで、全体性に対して無限が有する過剰を語らねばならないということ、〈同〉の言語で〈他〉を語らねばならないということ、(...)これはおそらく、〈内〉ー〈外〉の構造にまずもって移送される必要のない哲学的ロゴスなど存在しないということを意味しているのだろう。(...)空間的断絶なき言語を再発見することはできないだろうし、仮に再発見されたとしても、そこでは他性がより確実な仕方で失われてしまうだろう。(『エクリチュールと差異』219頁)
こうした言語の(無限を語れないという意味での)有限性をデリダは「起源的有限性」(『エクリチュールと差異』221頁)と述べている。
ところで、身体とは有限的なものである。A地点からB地点へと直接的に身体がたどり着くことはなく(つまり偏在することはできず)、そこでは必然的に距離が介在する。身体とそれが眼差し、知覚するものとの間には不断に距離が入り込む。こうした意味で、デリダが言語に与えた「起源的有限性」は身体にも刻まれている。フッサールにとっての身体とは、他者との分離、ひいては〈距離〉を指し示すもの、自己と他者を断絶しつつ媒介する〈敷居〉(ベンヤミン)に他ならない。フッサールはコギトの明証性というデカルト主義にもとづきつつも、それを間接性によって脱臼したのである。
ところで、宮川淳は『鏡・空間・イマージュ』においてこう述べている。
距離は見ることの可能性である。 見ることが可能になるためには、わたしと対象との間に距離を必要とする。 それはわたしのイニシアチブに属し、またそのこと自体によって、同時に対象に属するものとなる、いわば透明で、機能的な空ともいえるだろう。 わたしはいつでも、その距離を消させ、見ることをやめる(それはあくまで見ることの可能性に属し、いやその可能性そのものを基礎づけている)ことができる。だが、この見ることの可能性にほかならなかった距離が、突如、 ほとんど実体的な空虚として不透明に凝結し、わたしと対象との間に立ちはだかる。それはもはやわたしのイニシアチブに属さないばかりでなく、また対象にも属さない。 わたしは対象にふれることによってそれを消滅させること、つまり見ることをやめることができない。距離が見ることの可能性であるならば、〈見ないことの不可能性〉 (モーリス・プランショ)それが鏡であり、その魅惑なのだ。なぜなら、魅惑とはまさしくわれわれから見 ることをやめる可能性を奪い去るものにほかならないのだから。
この見ることをやめることのできない、閉じることを忘れてしまったが見ているもの、それはまさに映っているもの、対象のものではもはやなく、イマージュ、すでにそれ自体イマージュと化してしまった対象でなくてなんだろうか。
いや、すでに鏡がそれ自体イマージュと化した空間だろう。それゆえにこそ、この距離は横切ってゆく ことができない。鏡のなか、それはイマージュの魅惑の体験なのだ。そして魅惑そのものが鏡の危険な力にほかならない。鏡のなかに落ちる。だが、われわれはどこに落ちるのか。 イマージュの空間、それ自 体イマージュと化した空間。 われわれがそこから排除され、近づくことのできないこの純粋外面の輝き、鏡。(宮川淳『鏡・空間・イマージュ』、風の薔薇叢書、1987年、13-14頁
宮川淳の『鏡・空間・イマージュ』にはブランショ的思考が通底しており、実際このイマージュの経験を宮川はブランショ的意味での「死」になぞらえている。ところで死とは有限性に他ならない。距離が身体の空間的有限性を示すものであったとすれば、死とは身体の時間的有限性を示すものである。では、イマージュの空間、鏡とは、「起源的有限性」を刻まれた、フッサール的意味での身体以外の何であろうか。身体にはこうした「起源的有限性」が刻まれている為に、「この距離は横切ってゆくことができない」のである。ブランショハイデガーと共に多大な影響を与えたヘーゲルについてデリダはこう述べている。
ヘーゲルは、目は欲望を「消費する」ことを目指しているのではなく、一時中断するのだと考えていた。目は欲望の限界そのもの(まさにそれゆえ欲望の資源)であり、その最初の観照的感官である。光ならびに目の開けを思考しなければならないのは、何らかの生理学を起点としてではなく、死と欲望の関係を起点としてである。(『エクリチュールと差異』194頁、強調引用者)
ここで再びJアラートの問題に立ち戻れば、それはミサイルの恐怖、そしてその先にある死を利用しているかのように見える。しかし、果たしてそうだろうか。ヴィリリオは核による抑止というパラダイムをめぐってこう述べている。
つまり、[科学技術は]私達が死すべき存在であるというステータスを意識させないように、少しずつ意識させないようにしたのです。(...)大好きなベルグソンの言葉があります。「死はとりわけ偶発的である」。ですから実際には私たちが実質であり、偶発的なものとは死なのです。テクノロジー的対象でもそれは言えます。その事故とは、私たちがそれに対して持っている意識のことなのですから。事故を意識しないのならば、そのモノを意識しないことになります。つまり、テクノロジーの危機を。(...)死は意識を創造し、したがって政治的意識を創造するのです。(『純粋戦争』162-163頁)
防衛力強化、ミサイルにはミサイルを、という議論はまさにこの事故=死という偶発性を等閑視した上でなされているのである。
インターネットメディアという「兵站戦略」、統治術が猖獗を極め、空間=身体を抹消している今日、僕達はそれを取り戻さなければならない。しかしそれは直接性への回帰(=疎外論)であってはならない。それは、ハイパーパノプティコンとして直接性を供与し続けているインターネットメディアとの共犯関係に陥らざるをえないだろう。そうではなく、間接性としての、〈距離〉としての、〈敷居〉としての空間=身体を取り戻さなければならない。そのとき〈敷居〉は、僕達を(フーコーブランショ論「外の思考」の言葉を借りれば)「「外」の外」へと連れ出すだろう。それは、絓秀実が言うように「政治」の場に他ならない(絓秀実「詩(それ)の未来は、彼(エス)のものである。」『守中高明詩集』、現代詩文庫、1999年、159頁)。

石の記憶――「在日」の足跡を辿って

まだ生きつづけているものがあるとすれば

耐えしのいだ時代よりも

もっと無残な 砕けた記憶.

それを想い返す瞳孔かも知れない.

金時鐘「まだあるとすれば」『原野の詩』)

大阪

金時鐘の詩に誘われて、僕は関西に向かっていた。大阪、京都で「在日」の足跡を辿るためである。

大阪駅から大阪環状線で約20分。天王寺駅で降りる。観光客で賑わう天王寺動物園の裏にひっそりと佇む統国寺には、「済州島四・三事件」犠牲者の慰霊碑がある。

統国寺HPの言葉を借りれば、「済州四・三のもう1つの現場」である大阪にこの慰霊碑が建立されたのは四・三事件から70年が経った2018年の事であった。四・三事件から逃れ大阪にやってきた「在日」の人々は、この空白の期間を沈黙と共に生きてきたのである(軍事政権下の韓国で四・三事件について語ることはタブーとされ、公に歴史化が始まったのは1999年に「四・三特別法」制定・公布されてからである。金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか――済州島四・三事件の記憶と文学』参照)。

慰霊碑には済州島内の178の全ての村から運ばれてきた石が置かれている。この石に刻まれているのは、犠牲者と「在日」の人々の沈黙である。

まだあるとすれば

それは血ぬられた 石の沈黙

金時鐘同上)

こうした金時鐘の詩について、金石範はこう述べている。

 日本語は戦前、鞭と脅迫によって覚えさせられたものだ。それは戦後いったん、否定されたはずのものだった。ところが今度は、日本にやって来て再び日本語を使って詩を書くとなった時、時鐘にとっての日本語の意味は、心理的にも日本にずっとおった人間とは違う要素を持ってくるんじゃないかと思う。そこに見えるのが論理性である。私のいう論理性というのは、意志の力だ。時鐘の詩は意志だ。意志は必ず論理性を持っている。構想的な力です。

 叙情を拒否する力は意志であり、日本語の花鳥風月的な叙情に身をさらしながら、いわば分裂した状態で、創造的な使い方をしたんだな。

(金石範・金時鐘同上)

天皇のシンタクス」(中上健次)を脱臼させるような「日本語」で金時鐘の詩が綴るのは、日本的花鳥風月からかけ離れた自然であり、そこに登場するのが、沈黙を刻まれた石である。石はかつて、叙情を拒否せんとする意志でもあった。

石とても思いのなかでは夢を見る.

事実ぼくの胸の奥には

はじけた夏のあのどよめきが

雲母のかけらのようにしこっている.

石となった意志の砕けた年月だ.

金時鐘『化石の夏』)

慰霊碑に置かれた178の石。そこには、沈黙が、意志が、70年という意志の砕けた年月が刻まれていた。金時鐘の詩は、限りなく沈黙へと接近しながらも、沈黙を強いる事象を言語化、記憶化、歴史化しようとする試みに他ならない。

四・三事件の当事者であり、済州島から逃れて日本へとやってきた金時鐘が最終的にたどり着いたのは、猪飼野であった。

天王寺駅から大阪環状線で3分。桃谷駅を降り、閑静な住宅街を東に歩いていくと平野川、そして猪飼野に突き当たる。今は大阪コリアタウンとして知られているここ猪飼野は、金時鐘と同じく四・三事件から逃れてきた多くの「在日」の人々が暮らしている。

どうだ, 来てみないか?

もちろん, 標識ってなものはありゃしない.

たぐってくるのが 条件だ.

名前など

いつだったか.

寄ってたかって 消しちまった.

それで〈猪飼野〉は 心のうちさ.

逐われて宿った 意趣でなく

消されて居直った 呼び名でないんだ.

とりかえようが 塗りつぶそうが

猪飼野

イカイノさ.

鼻がきかにゃ 来りゃせんよ.

 

大阪のどこかって?

じゃあ, イクノといえば得心するかい?

あらがった君の 何かだろうから

うとまれた臭気にでも 聞いてみるんだな.

金時鐘『原野の詩』)

2023年開館予定の「大阪コリアタウン歴史資料館」の前には石碑が築かれ、そこには金時鐘の詩が刻まれていた。

「あぶく」と「下水」で淀んだ平野川は、やがて朝鮮半島にも繋がる「海に至る」。

京都

統国寺の「済州島四・三事件」犠牲者の慰霊碑の横には、日本の植民地時代に強制動員され、日本で亡くなった朝鮮人たちの無縁仏がある。

日本の戦争と植民地主義に動員された「在日」たちのもう1つの歴史が、京都にはある。

統国寺のある天王寺駅から近鉄京都線伊勢田駅へと電車を乗り継ぐこと1時間弱。ウトロ地区として知られるここは、日本の植民地時代に京都飛行場建設工事に動員された「在日」朝鮮人が多く暮らす。

日本の「朝鮮産米増殖計画」による殖産興業政策は、植民地朝鮮に資本主義を浸透させ、モノカルチャー化し、朝鮮人達を貧困へと追いやった。土地を奪われ、貧困に追いやられた朝鮮人達は日本人に借金をせざるを得なくなり、首が回らなくなっていた。夜逃げ・失踪は日常茶飯事だったという。

そんな中、朝鮮人たちの耳に飛び込んできたのが京都飛行場建設の話であった。国の仕事であり、住居や配給もちゃんとしている、徴用にいかずに済むなど実態を隠蔽し、粉飾に塗れた言説が朝鮮人たちを京都へ向かわせた(中村一成『ウトロここで生き、ここで死ぬ』参照)。

「戦後」、先の四・三事件朝鮮戦争による朝鮮半島内の動乱、朝鮮引き上げ時の財産持ち出しの制限などから多くの朝鮮人はウトロに留まらざるを得なかった。日本国籍の一方的な剥奪・無国籍化、指紋押捺など様々な差別に苦しむ中、日本資本主義(日産車体・西日本殖産)は再び朝鮮人たちからウトロという彼らの土地を奪おうとする*1

行政・司法が日本資本主義と結託して朝鮮人達から土地を略奪しようとする中、韓国市民社会での関心の高まりなどによって韓国政府が動き、土地全体を買い取ることはできなかったが、ようやく彼らの「所有権」が認められた*2。今日、ウトロ地区には日朝交流*3の架け橋としてウトロ平和祈念館が設立されている。

しかし、今回の旅はこうした「在日」の人々の沈黙だけではなく、意図せずして「日本人」の沈黙、すなわち無関心を目の当たりにする旅にもなってしまった。統国寺を無視して天王寺動物園へと向かう軽佻浮薄な観光客や、コリアタウンで分断や差別の歴史には触れず表層的に「韓国文化」(そして、しばしば北朝鮮の存在は無視される)を攫って満足している若者達を見るにつけ、韓国や「在日」の人々のオプティミズムとは対照的に僕は暗澹たる気持ちにならざるを得なかった。そして、この無関心が関心へと転化したとき、それはネット上のフェイクニュースヘイトスピーチ、ひいては「スペクタクル」に扇動されてウトロ地区に放火を行った「日本人」のヘイトクライムに象徴されるように、暴力へと至ってしまう。

 

「もっと無残な砕けた記憶/それを想い返す瞳孔」で「在日」の人々の沈黙と意志、記憶が刻まれた石を眼差すこと。それが今回の旅で十分に果たせたのかはわからない。いや、果たせることなどないだろう。それは終わりなき想起を強いるものだから。

 

石にこそ願いは

ひとひらの花弁のように辺もらねばならぬのだ.

金時鐘『化石の夏』)

 

 

 

*1:本源的蓄積という「略奪による蓄積」(デヴィッド・ハーヴェイ)は、決して「原始的蓄積」(マルクス)として資本主義の始原に限定されるものではない。それは資本主義が存続する限りつねにすでに存在する「継続的蓄積」(エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート)なのである。

*2:しかし、マルクスが『共産党宣言』において言うように資本主義こそが「私有」という形で「所有」を疎外するのだというのはウトロの「在日」の歴史に照らしてみても明らかであろう。

*3:朝鮮籍」を維持し続けた/ている金時鐘と金石範、そして南北分断に抵抗して蜂起した済州島の人々に敬意をはらい、「韓国」でも「北朝鮮」でもなく、僕はあえて日「朝」と言う。

「ここ」と「そこ」の間隙――僕達はどこに居るのか

 私たちはもう帰れない。ここから外に出られるものはだれ一人としていない。なぜなら一人でも外に出たら、人間が魂を持っているにもかかわらず、アウシュヴィッツでは、少しも人間らしい振る舞いができなかったという、ひどく悪い知らせが、肉に刻印された入れ墨とともに、外の世界に持ち出されてしまうからだ。(プリーモ・レーヴィアウシュヴィッツは終わらない』竹山博英訳、朝日選書、1980年、63頁)

 

 先日、東京に行く機会があり、そのついでと言ってはなんだが、国葬反対デモに参加してきた。僕達がスクラムを組み、国葬反対を叫び行進する中、横ではそれを妨害しようとする右翼の街宣車が走り回っていた。無論、これは火炎瓶もゲバ棒もない、所詮はお行儀の良いデモでしかない。しかし、それが「政治」の場である限り、つねにすでにそこには暴力と死の可能性が孕まれている。それ故、正直に白状すれば、僕は右翼の街宣車に恐怖を感じたのだった。しかし、それ以上に恐ろしかったものがある。デモ行進や街宣車を尻目に、何事もないかのように東京タワーの写真を撮っていた観光客の集団である。彼らそのものが恐ろしかったのではない。観光客がいる「ここ」と僕達が立っている「そこ」の間隙に穿たれた穴の深さに、「ここ」と「そこ」の差異に恐れ慄いたのである。

 「ここ」が日常の場であるとしたら、「そこ」は非日常の場、暴力と死の可能性を孕んだ彼岸である。「ここ」にいる彼らに「そこ」の僕達は目に入らない。一方で、「そこ」にいる僕達も「ここ」の彼らに気付くことは往々にしてない。「そこ」がないから「ここ」にいる人は「ここ」に居るという事に気づかないし、その逆もまた然りである。僕が「そこ」に居ながらにして「ここ」に気づいたのは、偶然でしかない。

 こうした「ここ」と「そこ」の間隙に躓き、恐れ慄いたのが、小林秀雄である。

 批評家の山城むつみは、『小林秀雄とその戦争の時』においてこう書いている。

 大陸に渡った小林には、いわば「二つの時間」が流れているのだ。ひとつは戦地の時間。「そこ」に渡った小林はすでに戦地の時間の内部にいる。もうひとつは内地から連続している時間。小林は、内地から引きずっている「ここ」の時間の内側から戦地を見ているのである。大陸に渡った小林は、同時に流れるこの「二つの時間」の隙間、喩えて言えばわずか一時間の時差に不断に落ち込み、奇妙に混乱した感覚を強いられている。苛立ちながらこの隙間から「ど強い支那の風物」を見聞して書いたのが小林の従軍記事なのである。(山城むつみ小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイ文学」の空白』、新潮社、2014年、27頁)

 「そこ」では、日本人が中国人に対して、「殺・掠・姦」(堀田善衛)の限りを尽くしている。小林が内地=「ここ」の時間と感覚から、こうした戦地=「そこ」の時間と感覚を問題にしようとしても、それはことごとく愚問となってしまうほど、「そこ」においては、「そこ」という例外状態が常態化=日常化してしまっているのである。

 作家の辺見庸は、『1★9★3★7』において「ここ」と「そこ」の断絶を正確に捉えている(辺見庸『完全版1★9★3★7(上)』、角川文庫、2016年、97頁以下)。そこで辺見は、これがあくまでフィクションであることをことわりつつも中国人の視点から日記体で書かれた堀田善衛『時間』の1937年12月3日と、永井荷風古川ロッパの1937年12月3日の日記を比較する。前者が「南京は完全に包囲されている・・・」という不穏な文章で始まるのに対し(言うまでもなくこの10日後、南京大虐殺が起きる)、後者は焚き火をしてアイスを食べただの、「奇妙にのんきな時間」がながれている。「ここ」と「そこ」は明確に断絶しているのである。

 しかし、「ここ」と「そこ」は断絶しつつ連続している。何故なら「そこ」において「殺・掠・姦」を行っているのは、「ここ」の人間だからである。

 故郷では妻子もあり立派に暮らしているはずなのに、戦場では自分をみちびいてゆく倫理道徳を全く持っていない人々が多かったのです。住民を侮辱し、殴打し、物を盗み、女を姦し、家を焼き、畠を荒す。それらが自然に、何のこだわりもなく行われました。(武田泰淳「審判」、『上海の蛍・審判』所収、小学館、2016年、242頁)

 これらの事を行った人々に「知的訓練」(武田泰淳)があるかどうかなど関係ない。吉本隆明のように、「日本的な様式」などというよくわからない本質主義的な図式に還元するのも欺瞞でしかないだろう。そうではなく、「悪魔でない人間を悪魔にしてしまうこの「無意味」こそが「恐ろしい」のである」(山城むつみ同書、43頁)。山城むつみは、以下のように続ける。

 「ここ」とほとんど変わらないように見える「そこ」の日常生活から「ど強い」犯罪へと至る路を開いているのだとしたらどうだろう。(...)強姦、虐殺、等の「無惨」な行為に通じる入り口も、「そこ」にあっては、ごくわずかな隙間として日常の至る所にあいていただろう。しかも、その隙間がわずか一時間程度のくるいだからこそ将兵たちは、それを感知できないままに日常から地続きにその入口に入りこんでしまい、その「ど強い」異常へと突っ走ったのではなかったか。(...)僕らも「そこ」の日常にあって自分だけはその感知できない入口に入り込まないなどと考えることはできないのである。(山城むつみ同書、51頁)

 繰り返すが、「ここ」と「そこ」は断絶しつつも繋がっている。しかし、この事は「ここ」と「そこ」の間隙を見て取らなければ気付くことができない。間隙、差異なくして「ここ」も「そこ」もないからである。間隙とは、「ここ」と「そこ」を断絶させつつ繋ぐ、ある種の敷居、閾に他ならない。肝要なのは、この間隙そのものなのである。

 日本の「戦後」とは、小林が見て取った「ここ」と「そこ」の間隙を、「象徴天皇制」「一国平和主義」「戦後民主主義」によって埋め合わせ、塗り固めていく過程に他ならなかった。

 今日、いわゆるグローバル化や、人口に膾炙した多文化主義的言説によって「ここ」と「そこ」は再び繋がったかのように見えるが、「そこ」はせいぜい同じ座標空間の「ここ」から見た異なる点でしかない。空間それ自体の非均質性が見落とされているのである。

 「ここ」と「そこ」の間隙を問い続けた小林秀雄堀田善衛武田泰淳竹内好は死に、この間隙を実践的に生きようとした東アジア反日武装戦線は瓦解した。

 僕達はこうした知的・政治的荒廃情況を生きているが、歴史は待っていてくれないようである。唐突だが、幾つかのニュースと論説を引用する。

ブランコ・ミラノヴィッチ「今や人類に希望は存在しない?」(2022年7月15日) – 経済学101

アダム・トゥーズ「ペロシはなぜ台湾に向かうのか? 中国・アメリカ・台湾経済、そして世界経済の行方」(2022年8月3日) – 経済学101

The US’s Taiwan Policy Could Provoke Another Dumb and Dangerous War

防衛装備品の輸出「国主導」で推進、国家安保戦略に明記へ…防衛産業の立て直し図る : 読売新聞オンライン

アダム・トゥーズ「反インフレ政策へと旋回した2022年:協調性の欠如、緊縮的な金融・財政政策は、世界的な景気後退を招くリスクを孕んでいる」(2022年9月18日) – 経済学101

僕達は「ここ」にいるのか、「そこ」にいるのか、それとも――。

周縁の周縁から

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もはや定住社会ではなく通過社会。もはや偉大なる遊牧的漂流という意味でのノマド社会ではなく、輸送手段に集約された社会。(ポール・ヴィリリオ『純粋戦争』細川周平訳、ユー・ピー・ユー、1987年、88頁

 

国道16号線スタディーズ』を読んだ。

本書が主題とするのは、東京をぐるっと囲むようにして神奈川県横須賀市から千葉県富津市までを結ぶ国道16号線、そしてそれに沿うようにして点在する「郊外」である。

ところで、この本を読むことはある種の実感を伴ったものにならざるを得なかった。というのも、東京郊外ですらない地方―こう言ってよければ「周縁の周縁」―から上京してきた僕がいわば東京生活の拠点として初めに選んだ(経済的事情によってそうせざるを得なかった)のは、本書で取り上げられている内の一つの郊外だったからである。逆説めいた言い方になるが、僕の東京生活は、新宿や池袋、あるいは秋葉原や神保町でもなく、郊外の記憶とともにある。それは、青春を彩る華やかな記憶というよりも、東京と郊外の距離を、東京出身の友人たちに感じざるを得なかったある種の心理的距離(それは大きな話をすれば「階級」差でもある)と重ね合わせるような苦い記憶である。

さて、ゼロ年代に隆盛を極めた郊外論は今やその鳴りを潜めているが、本書はそのかつての郊外論のアップデート作業を目論んだものであることが初めに述べられている。

かつての郊外論が「ファスト風土」、「匿名的で均質的な空間」(本書でも引用されているマルク・オジェの言葉を借りれば「非-場所」)というような紋切り型で郊外を表象するものだとすれば、本書が掴もうとしているのは、むしろそうした「匿名的で均質的な空間」、「非-場所」にも内在している「場所」の経験である。第三章で取り上げられているトラックドライバーのそれのように、一見物語がない「非-場所」にも当事者にとっては切実な物語や生がそこにはある。本書に収録されている幾つかの論考には、そうしたものを掬い取ろうとする眼差しが通底している。

しかし、郊外論はなぜゼロ年代に隆盛し、その後急速に失速していったのか。塚田修一・後藤美緒・松下優一によれば、90年代、16号線はバブル崩壊後の不況下にあってなお経済が活気を呈している商業的可能性のエリアとして、マーケティング分野で注目を集めていたという。ゼロ年代に郊外論が隆盛を極めたのは(それが「ファスト風土」として批判するものであれ、経済的な可能性の場として肯定するものであれ)こうした背景があったように思われる。ただ、2022年現在、鈴木智之や西田善行が述べているように、すでに16号線沿線の多くの郊外では人口減少が始まっている。それは、少子高齢化や、新自由主義経済の浸透による雇用の不安定化、資本循環の停滞、デフレなどによって、結婚し、子供を作り、郊外に居を構えるというかつての生活のモデルプランがモデルプランとして機能しなくなっている事と相即しているだろう。郊外論の失速は、かつて経済的な可能性の場として見いだされた郊外の衰退が影響しているのではないだろうか。

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先日、地元に帰ってみると、いつの間にか厚ぼったい灰色で塗り込められた物流センターがそびえ立っていた。その周りに暮らすのは高齢者ばかりで、郊外の記号としてのファミレスやショッピングモールすら存在しない。ここに至っては、この場は、「非-場所」という言葉すらあてがうことのできない、否定形でしか規定できないような場と化している。まさに、周縁ではない、「周縁の周縁」としか言いようがない場。そこは、かつての郊外のように生活の拠点にすらならず、物流センターが象徴するように、物と人が通過し、去っていくだけの場である(最近、偶然にも富田克也監督の『サウダーヂ』という映画を見る機会があったが、「周縁の周縁」はあそこで描かれているものに近い)。

かつての郊外は、たとえそれがファミレスやショッピングモールといった文化的に"貧しい"ものであったとしても、そこで暮らす人達にとっては切実な生が営まれる場であったのかもしれない。本書がそれを掬い取ろうとする眼差しに支えられているということは先述した通りである。しかし、僕の地元である「周縁の周縁」にそのような切実なものが生まれる余地はない。なぜならそこは、繰り返すが、ただ通過し、去っていくだけの場所だからである。郊外は、いまや僕の地元のように「周縁の周縁」と化していっているのではないだろうか。

近々、僕は約5年にわたる東京生活を終える。あてどなさをごまかす為だけにやっていたような、閑散としたイオンモールでのバイト。駅前の西日がさす日高屋で啜ったラーメン。生活の空虚さ以外には何も見出すことのできなかった西友での買い物。そうした、郊外を象徴するありふれた―しかし同時に僕にとっては切実な―生活は、もはや失われつつあるのかもしれない。ただ、そこには、切実な生はなくとも、固有の歴史と構造が、こう言って良ければ、常に外部を参照し続ける資本主義による搾取と差別の歴史と構造がある(本書で近森高明が示唆しているように、国道16号線は福島へと行き着くのである。そして、国道16号線はおそらく、日本の、ないしは「ヤマト」の、実質的植民地と化している沖縄へすら至るだろう。)。もはや切実な生を掬い取ることすら許されなくなった郊外論に必要なのは、そうしたものを見て取ろうとする眼差しなのかもしれない。

 

〈隔たり〉の証言――石沢麻依『貝に続く場所にて』における「第三者」の倫理学

恥ずかしさを感じる者は、(...)かれから言葉を奪うもののために答えなければならない*1
 
 『貝に続く場所にて』の作者、石沢麻依はあるインタビューにおいてこう答えている。
 
 書くということによって、現実そのままを表すなんてできないと思っています。書くとは現実を自分の視点で切り取って、額縁のような枠に収めるような行為ではないでしょうか。その切り取り方が果たして正しいのだろうか。対象に対して適切な距離をとれているかどうか。いつもその前で躊躇してしまいます。(...)震災も含めていろんな出来事や記憶との距離は、いつだってなかなかつかめない*2
 
 こう語る石沢は「書くこと」と現実の間の「距離」に極めて自覚的な作家だと言える。実際、本作の主題の一つは「距離」であった。
 本論では、この「距離」を一つの軸として『貝に続く場所にて』を読解し、そこから浮かび上がってくるものを明らかにしたい。
 
「距離」
 そもそも、作中で語られる「距離」とは何なのか。その手がかりとして、「私」の研究対象に着目したい。
 「私」が研究主題としているのは、中世以降のドイツにおける「十四救難聖人の図像の発展と信仰問題」である。作中の説明によれば、この十四人の聖人は、それぞれ、病や事故による死から免れるための信仰対象となっていたという。それ故、彼らが図像化される際には、彼らの苦難にまつわる逸話と深く結びついた物が共に描かれる。

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 たとえば、上の画像の《シチリアの聖アガタ》は、拷問によって乳房を切り取られたが故に、「痛みの記憶」として、乳房が共に描かれている。
 こうした、記憶とそれを代補するものとしての(「身体の記憶」や物といった)痕跡の関係は、「頭の中にある記憶を支えるのは、身体の記憶である」*3という認識のもと、作中において執拗に反復される。この反復によって浮かび上がってくるのが、「痛みの記憶の断片をこうして抱え続ける」*4聖人と、「私」の差異である。「私」は、本作に濃い陰を落としている「九年前」の出来事を回想しながら、こう述べる。
 
 映像だけが記憶となるのではない。身体のひとつひとつの部位が記憶を蓄え、それを静かに抱え込む。その身体が抱える残像を、おそらく消せることはないだろう。(...)それでも、私の記憶のたどり着く先は奥行きのない白になる。このすべての身体記憶を繋げても、それは断片の濃厚な寄せ集めに過ぎず、あの日の全体像を浮かび上がらせることはできない。身体の部位が抱える記憶の持ち物。それは私の一部だが、聖人のような自己証明の象徴にすることはできない。海も原発も関わらなかった場所にいたこと。そのことが、あの日の記憶と自分の繋がりを、どこかで見失わせている*5
 
 作中の舞台となっているのはコロナ渦のドイツであるが、コロナウイルスによって生じた人と人の間の「距離」が、「海も原発も関わらなかった場所にいたこと」によって生じた「私」と「九年前」の出来事の間の「距離」にこうして重ね合わせられる。そして、「海も原発も関わらなかった場所にいた」ということはすなわち、それに対する「身体の記憶」が不在であるということに他ならない。「身体の記憶」という直接的な経験が不在であるならば、「九年前」の出来事に対するイメージは必然的に間接的なものにならざるを得ない。「私」は、「私」の津波に関するイメージが、テレビやインターネットというメディアを媒介として作り上げられたものだということ、すなわち間接的なものに過ぎないのだということを、繰り返し繰り返し確認する*6
 
 私自身には暴力的な水の記憶はない。私もまた、海が全てを破壊するさまを映像を通して目にしたひとりだった。テレビやインターネットの動画で繰り返される破壊の情景。(...)写真や動画がもたらした情景と、私の中の海の印象は繋がらないままだ*7
 
 私が海に対しても原発に対しても、間接的な視点や距離感しか持っていないからなのだ。私の視点は、常に額縁の外に置かれている。額縁の外から、画面の中にある削られた場所と常態を取り戻す海を眺めているにすぎないのだ*8
 
 この「距離」や「間接性」は、「私」の語る「言葉」それ自体にも敷衍される。それ故、「九年前」の出来事について語ることを、そして、「九年前」の出来事で亡くなった野宮の幽霊と語ることを、「私」は躊躇する。
 
 しかし、言葉と感覚の距離感は、私の中でも渦巻いている。「戦争」「空襲」「噴火」などの言葉に対して、私は感覚を伴うイメージがあるわけではない。「津波」にしても私は感情的にこの言葉と結びついている気がするだけで、実際のところ画面越しにしか見ていない。私がその言葉に感情を添える時、その言葉を身に刻んで暮らし、そしてあの水の壁を目の当たりにした人にとっては、感傷で距離を測り間違えていると映るのではないだろうか*9
 
 こうして、「九年前」の出来事を生き延びると同時に、(津波原発による被害を)経験しなかった「私」の中には、「疚しさ」が生ずることとなる*10。「距離」によって生じた「疚しさ」は、単なる「疚しさ」ではない。それは――こう言って良ければ――主体を崩壊せしめる「疚しさ」である。
 
「遠近法」
 ここで着目したいのが、「距離」の象徴系の1つ、「遠近法」である。
 
 遠近法は画面や空間に奥行きを、距離を作り上げる。(...)遠近法は記憶の中にも作用している。そしてその焦点に置いた映像は、他の記憶図の配置を変えてしまう。時間を重ねていけば、様々な消失点を設定し、自在に記憶を眺めることができる。しかし、私たちの中にある消失点は、どこまでもあの日に置かれてしまっているのもまた事実だった*11
 
 固定された中心となることで、絵画空間に奥行きや距離を作り上げる消失点。しかし、消失点が「あの日」に置かれてしまっている為に、「私」の「記憶のたどり着く先は奥行きのない白」になってしまうのである。奥行きがなくなるということはすなわち、遠近感がなくなるということであり、遠近法が崩壊するということである。そして、遠近法が崩壊するということは、主体が崩壊するということに他ならない。どういうことか。
 アメリカの思想史家であるマーティン・ジェイは、視覚をめぐる議論において、遠近法とデカルト哲学の親密性を剔抉した。彼によれば、近代においては、客観的で科学的な視覚モデルが求められたが、それに最適だったのが、遠近法に拠る「世界の外側に位置し、歴史には属さず、中立的で、身体を欠いた」デカルト的な主体であった。それ故この遠近法という視覚モデルをジェイは、「デカルト的遠近法主義」*12と呼ぶ。
 この限りで、遠近法が崩壊するということは、デカルトが定立したような「我思う、故に我有り」であり、「我視る」である主体が崩壊するということである。
 しかし、ここで事態を複雑にするのが、この遠近法の崩壊は、まさしく「距離」によって、すなわち遠近法それ自身によって生じたという事である。あるいは、ここでは遠近法が全く別の意味で使われていると言っても良いだろう。先に見たように従来の遠近法によって生じる「距離」は、「世界の外側に位置」することで対象を鳥瞰、ないし全体視するような超越的な主体を定立するものであった。一方、ここで言われる遠近法によって作り出される「距離」は、そうした全体視を拒む、すなわち主体の定立を不可能にするものである。それ故、「私」の記憶は、「全体像を浮かび上がらせる」ことができず、遠近法の全き拒絶としての白いキャンバスを想起せしめる、「白」へと行き着いてしまうのである。この限りで「疚しさ」とは、遠近法の崩壊としての遠近法の成立の経験、すなわち、脱主体化としての主体化の経験に他ならないのである。
 
「第三者 terstis」の倫理学
 議論が抽象的になってきたところで、補助線としてイタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』を援用することは、いささか強引に過ぎるだろうか。しかし、本作においては、「九年前」の出来事と、アガンベンが『アウシュヴィッツの残りのもの』で問題とした「ショアー*13を繋ぐ「失われた痛みの記憶」として、「躓きの石」が取り上げられている。
 アウシュヴィッツは周知のように、ユダヤ人のショアー=絶滅を目的とした収容所であるが、その歴史認識を巡ってはとりわけ、ガス室の存在が問題となってきた。というのも、ガス室を目撃したのは殺害されたユダヤ人達をおいて他にない。一方で、生き残った者達はガス室を目撃していない。目撃した者は皆死んでおり、その存在の証言は不可能である。それ故生き残った者達には、そして、ガス室を、ひいてはアウシュヴィッツを直接的に経験していない「第三者」にも、その存在を証言する為の、当事者・目撃者としての資格は欠落している。故に生き残りや、その後続世代の私達は、不完全な証人でしかない。アウシュヴィッツ歴史認識を巡っては、このような証言のアポリアが孕まれているのである。したがってアガンベンは、アウシュヴィッツに関してはリアルさ、包括的な理解が欠けており、アウシュヴィッツは永遠に理解不能であるとして「神秘化」するものを勢い付かせる結果になってしまっていると言う。それが行き着く先は、ガス室否認論、すなわち、歴史修正主義に他ならない。
 しかし、アガンベンはこうしたアポリアを確認することで、ニヒリズムに居直っているわけではない。アガンベンはこう述べる。
 
 アウシュヴィッツアポリア歴史認識アポリアに他ならない。すなわち、事実と真実、確証と理解のあいだの不一致である。
このようなわけで、すべてを納得してしまう者のようにあまりにも拙速に理解しようとするのでもなく、安直に神聖化してしまう者のように理解を拒否するのではなく、その隔たりのもとに留まりつづけていることが、著者には唯一の実践可能な方途であるようにおもわれた*14

 

 それ故、『アウシュヴィッツの残りのもの』は、この、「隔たり」の証言論として展開される。

 アガンベンアウシュヴィッツの生き残り、プリーモ・レーヴィの著作を参照しつつ、生き残った者を支配している「恥ずかしさ」の感情に着目する。ここで言う「恥ずかしさ」は決して道徳意識や欠陥意識に由来するものではない。そうではなく、アガンベンは、レヴィナスを援用しつつ、この「恥ずかしさ」は、自己が引き受けることのできないものを引き受けるという受動性へと引き渡されることに由来すると述べる。
 
 恥じることが意味するのは、つぎのことである。すなわち、引き受けることのできないもののもとに引き渡されることである。(...)すなわち、恥ずかしさにおいて、主体は自分自身の脱主体化という中味しかもっておらず、自分自身の破産、主体としての自分自身の喪失の証人となる。主体化にして脱主体化という、この二重の運動が、恥ずかしさである*15
 

 

 アガンベンによれば、「引き受けることのできないもの」に引き渡され、自己が崩壊すること、脱主体化することこそが、「恥ずかしさ」の経験に他ならない。アガンベンはこうした議論を証言論へと敷衍し、証言の主体は脱主体化の主体であるのであって、脱主体化をこそ証言するのだという。

 

 恥ずかしさを感じる者は、(...)かれから言葉を奪うもののために答えなければならない*16
 
 すなわち証人は、ある出来事に対し、言葉を奪われるという脱主体化の経験をこそ証言するのである。証人は、ガス室アウシュヴィッツについて証言するのではない。証言の不可能性を、言葉と出来事の間の「隔たり」をこそ、証言するのである。
 
 もし生き残った者が証言するのがガス室アウシュヴィッツについてではなく、(...)もしかれがあくまで話すことの不可能性から出発してのみ話すなら、そのときにはかれの証言は否定されえない*17
 
 ここで『貝に続く場所にて』に立ち戻ってみれば、津波原発といった出来事に対する「身体の記憶」の不在ゆえに、「私」、あるいは「私」の言葉と出来事の間には「間接性」や「距離」が生まれ、「私」は「疚しさ」を感じていた。そして、私達が「距離」の象徴系の1つ、「遠近法」に着目しつつ明らかにしたのは、「疚しさ」が脱主体化としての主体化の経験に他ならないということであった。この「疚しさ」と、アガンベンが述べる「恥ずかしさ」は通底し合うものである。「私」が執拗に「私」と出来事の間の「距離」と「間接性」を確認するのは、この「隔たり」をこそ証言するために他ならない。
 「疚しさ」は安易な言葉で歴史を総括することを決して許さず、「隔たり」の証言とを強い続ける。
この「隔たり」の「証人 testis」になることこそ、第三者の応答=責任としての、「第三者 terstis」の倫理学に他ならない。
 震災やショアーといった「痛みの記憶」は、歴史修正主義に抗して、伝承されるべきものである。しかし、先のガス室の証言を巡るアポリアからもわかるように、そうした災厄を直接的に経験していない者達に、その災厄を伝承・証言する資格はない。またそこには、テレビやインターネットといったメディアを媒介として作り上げられたイメージが、すなわち間接性が必然的に介在せざるを得ない。一方で、その災厄の経験者や生き残りに中心を置いた議論はすぐさま骨抜きになるであろう。なぜなら、そうした経験者や生き残りは、時間を経て、いずれいなくなるからである。では、災厄を直接的に経験していない「第三者」は、どうすれば、「痛みの記憶」を伝承することができるのだろうか。「第三者」にできることは、理解を拒みその出来事を神秘化することでも、「再生や復興という言葉で化粧を施」*18し、安易に歴史を総括することでもなく、「私」のように「隔たり」に留まり、その「隔たり」を証言し続けることを置いて他にないのではないだろうか。
 『貝に続く場所にて』がある種の普遍性を持っているとするならば、それは、「私」が「九年前」の出来事の体験者だからではない。そうではなく、「私」が、(津波原発の)体験者ではないからである。「私」が体験者であるならば、初めから「隔たり」や「距離」など問題にはならないであろう。また、石沢は、震災を題材とすることで、震災の経験者や、震災を経験した民族としての「日本人」なるものを特権化しているわけではない。「私」が体験者ではなく、「第三者」であるからこそ、ここで定立されるものは、震災に限らず、戦争や虐殺といったあらゆる災厄の、「痛みの記憶」に、そして、「日本人」のみならず、外国人、そして、その災厄を経験していない来たるべき未来の者達といった「第三者」に、敷衍可能なのである。『貝に続く場所にて』は、災厄を直接的に経験していない「第三者」がいかにしてその「痛みの記憶」を語り継ぐかという問いに一つの指針を与えているのである。
 
 私が恐れていたのは、時間の隔たりと感傷が引き起こす記憶の歪みだった。その時に、忘却が始まってしまうことになる。(...)還ることができないという事態は、海や原発から離れた場所で少しずつ忘れ去られてゆく。海に消された人々を、そこに繋がるものを今も探し続ける人たちの静かな姿と、それはあまりにも大きな隔たりがあった。
記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感。その輪郭を指でなぞって確かめて、野宮の時間と向かい合う。その時、私は初めて心から彼の死を、還ることのできないことに哀しみと苦しみを感じた*19

 

 石沢が芥川賞を受賞した9日後、東京五輪が「復興」五輪の名のもとに開催された。開催までは批判が上がっていたものの*20、蓋を開けた途端、それは「国民」の熱狂とともに迎え入れられた。国家と「国民」の共犯関係のもとに、すでに忘却は、始まっているのである。であるならば、『貝に続く場所にて』は、集団的健忘症の発端となってしまうであろう「復興」五輪が開催された今だからこそ、単なる芥川賞受賞作としてのみならず、「第三者」の倫理学の書として読まればなければならない*21。再生や復興という言葉でもって安易に歴史を総括しようとする者たち――そこに「隔たり」や「距離」の自覚はあるだろうか――への、忘却への、抵抗として。死者への倫理として。

 

*1:ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』、上村忠男・廣石正和訳、月曜社、2001年、144頁

*2:《芥川賞受賞》「私が小説より前に出てしまうのは、なんか違うんじゃないか」 ドイツ在住の石沢麻依が“距離”を大切にする理由 | 文春オンライン

*3:石沢麻依『貝に続く場所にて』、講談社、2021年、59頁

*4:同前

*5:『貝に続く場所にて』、60頁

*6:ここには、石沢が私淑するゼーバルトの影響がはっきりと伺える。ホロコーストとその記憶の伝承を一つの主題とし続けたゼーバルトは、それを直接経験したドイツ人作家たちが、戦後、その記憶に口を噤んだことを『空襲と文学』で糾弾しながらも、一方でその後続世代は、ホロコーストの記憶を伝承するにあたって、写真のようなメディアに媒介されざるを得ないことを明確に認識し、自らの著作に写真を配置し続けた。鈴木賢子「W.G.ゼーバルトの記憶の技法」、『実践女子大学美学美術史学』第24号、2010年参照

*7:『貝に続く場所にて』、88頁

*8:同前

*9:『貝に続く場所にて』、41頁

*10:『貝に続く場所にて』、79~80頁

*11:『貝に続く場所にて』、52頁

*12:マーティン・ジェイ「近代性における複数の「視の制度」」、ハル・フォスター編『視覚論』、榑沼範久訳、平凡社、2001年、23頁

*13:アガンベンは、本書において「ホロコースト」の語源まで遡りつつ、この語にはその起源から反ユダヤ主義が孕まれていたことを明らかにしている(『アウシュヴィッツの残りのもの』、37頁)。それ故以下では、アガンベンに倣い、「ホロコースト」ではなく、「ショアー」を用いることとする。

*14:アウシュヴィッツの残りのもの』、9頁 強調引用者

*15:アウシュヴィッツの残りのもの』、142頁

*16:アウシュヴィッツの残りのもの』、144頁

*17:アウシュヴィッツの残りのもの』、223頁

*18:『貝に続く場所にて』、117頁

*19:『貝に続く場所にて』、149~150頁

*20:そもそも、この批判自体、コロナ渦で五輪を開催する事への批判という条件付きのものでしかなく、五輪それ自体の問題性が問われることは一部を除いてほとんど無かった。

*21:石沢ははっきりと「復興」五輪を批判している。https://www.asahi.com/articles/ASP7H775JP7HUNHB00X.html