JアラートとTiktok、あるいは〈距離〉の身体と政治のために

Jアラートと恐怖による統治
11月3日、北朝鮮がミサイルを発射したことを受け、日本政府は地方自治体などに緊急情報を伝える全国瞬時警報システム(Jアラート)を稼動した。
北朝鮮にミサイルを発射するよう仕向けているのは誰なのか・何なのか考えることもなく(言うまでもなく日米韓による合同軍事演習であるがなぜその程度のことがわからないのか)、挙句の果てにはミサイル発射を口実に在日朝鮮人朝鮮学校の生徒たちに恫喝を行う日本人の想像力の欠落、思慮の浅さには呆れるほかないが、ここで論じたいのはそうした事ではない。
Jアラートは既に指摘されているように(Jアラートを国会に設置する意味とは 続く北朝鮮のミサイル発射に「着弾したら終わり」の声も:東京新聞 TOKYO Web)、機能的に欠陥を持ったものである。北朝鮮のミサイルが日本上空(実際には高度2000メートルの宇宙空間)を通過したのは7時48分。Jアラートが発されたのは7時50分である。使われている兵器がミサイルである限り、たった2分の遅れでも避難は不可能だろう。では、なぜ安全保障装置としては失敗作でしかないJアラートを日本政府は存置し続けるのか。それは、日本政府は安全保障に失敗することによって別の事に成功しているからである。フーコーの言葉を借りれば「権力は失敗して成功する」。では、何に成功しているのか。「恐怖(テロル)による統治」(酒井隆史)であり、クラウゼヴィッツのテーゼを転倒させた、「別の手段による戦争の継続」に、である。
ポール・ヴィリリオは、『戦争と映画』において以下のように述べている。
戦争は、人の眼を欺く見せ物と切り離せない。こうした見せ物を作りだすこと自体が戦争の目的であるからだ。敵を倒すというのは、相手を捕らえるよりもむしろ相手を威圧することであり、死の手前にあって相手に死の恐怖を体験させることなのである。(...)それゆえ演技行動を欠いた戦争などありえないし、心理的欺きに無縁な精密機械などもない。兵器とはただ単なる破壊装置のレベルで生じる化学的現象ないし神経学的現象によって存在があらわになる刺激装置であり、知覚対象への反応、その識別、あるいは他の物体との差異の認識などに影響を及ぼすものなのである。(ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』石井直志・千葉文夫訳、ユー・ピー・ユー、1988年、7頁)
ここでヴィリリオは、第ニ次世界大戦時にドイツで使用されたユンカース87という攻撃用急降下爆撃機を例にあげる。これは、攻撃目標に向かう際、「耳をつんざくようなサイレンの唸り声」をたてていたという。そうすることで、恐怖感によって敵を萎縮させるためである。ヴィリリオは、『速度と政治』『純粋戦争』などにおいては、こうした「別の手段による戦争の継続」としての科学技術、それによる身体や空間の消滅(空間から時間へ)といった問題について論じている。戦争の為の技術革新によってあらゆる空間が戦場となる可能性がある今日において、文民と軍人、兵站地域と前線の区別はつかなくなる。何故なら、「新兵器は軍備競争運動の中断を抑止するのであって、それらの生産をめぐる「兵站戦略」が宿命となる」(ポール・ヴィリリオ『速度と政治』市田良彦訳、平凡社ライブラリー、2001年、203頁)からである。「兵站戦略」の為に恐怖というスペクタクルが要請され、それが僕達の知覚・身体に働きかける。こうして「兵站」として「知覚が動員される」(ポール・ヴィリリオ、シルヴェール・ロトランジェ『純粋戦争』細川周平訳、ユーピーユー、1987年、231頁)のである。Jアラートもある種のサイレンとしてユンカース87と同じ役割を果たしている。すなわち、それはサイレン=アラートとして恐怖という見せ物=スペクタクルを演出するのである。それが防衛費増額の為の増税改憲を容易にすることは、言うまでもない。
 
Tiktokと瞬間性の君臨
ヴィリリオによればこうした「兵站戦略」の中心を占めるのが映画である。先に述べたように「兵站戦略」は知覚に働きかけ、「兵站」として知覚を動員するが、映画のような映像技術の進化と僕達の知覚の変容は切り離すことができない。ヴィリリオは映画史をふり返ってこう述べている。
映画の歴史をふり返ってみると、はじめは時間が拡大する方向にあるのに(たとえばアベル・ガンス)、六〇、七〇年代以来縮小し、内的緊張の方向に向かっていることがわかります。ヴィデオ・クリップ、TVのコマーシャルなどはその最たる例です。(『純粋戦争』230頁)
この映画の歴史は、ニコニコ動画・ユーチュブからtiktokへというインターネットメディアの歴史にも当てはまる。ニコニコ動画youtubeにおいては数分~数十分の動画が主流を占めている一方、tiktokにおいては数秒~数十秒のものが多い(youtubeも「ショート」機能によってtiktok的メディアへと姿を変えつつある。また、"インスタ"グラムを想起しても良いだろう)。こうしたインターネットメディアにおいて時間の概念は歴史=持続から瞬間・緊張へとその姿を変える。
歴史=持続から瞬間・緊張への時間概念の変容は、今日の新自由主義の猖獗とも無縁ではない。フランシス・フクシマのかの有名な「歴史の終わり」のテーゼ以降、世界各地の経済体制の新自由主義化が本格化した。「歴史の終わり」とは歴史=持続の終焉であり、瞬間としての時間の到来である。Jアラートやtiktokといった「兵站戦略」は、先にも述べたように、「別の手段による戦争の継続」にほかならないが、これがクラウゼヴィッツのテーゼの転倒であるという意味で、そこでは「政治」が抑圧される。もはや戦争はクラウゼヴィッツが言ったような「別の手段による政治の継続」ではないのである。グレゴワール・シャマユーは『統治不能社会』において新自由主義権威主義自由主義に他ならず、そこでは政治が抑圧されることを喝破した。更にシャマユーは権威主義自由主義がシュミットとハイエクアマルガムである事を明らかにしているが、ジョルジョ・アガンベンが繰り返し述べているように、カール・シュミットの議論と緊急事態(=「例外状態」)という瞬間的時間は切り離すことができない。tiktokによる瞬間性の君臨、Jアラートという恐怖のスペクタクルによる緊急事態(=「例外状態」)の演出によって政治は引きずり下ろされることとなる。
政治の終焉は歴史の終焉でもあります。瞬間の強度が問題となる超政治的ヴィジョンに入りつつあるのです。(...)瞬間の質が重要であるような内へ収縮するような(強度=緊張の)時間、緊急事態。(『純粋戦争』130頁)
恐怖というスペクタクルによって緊急事態を演出するJアラートと、tiktokのような瞬間的メディアの普及は相即しているのである。
 
〈距離〉としての身体と政治
政治=ポリスが引きずりおろされるとき、都市=ポリスという空間が消滅する。廃墟と化したポリスには、安全保障を司る(と自称する)警察(=ポリス)が跋扈する。しかし、彼等は何を守っているのだろうか。
安全保障という「兵站戦略」の中心を占める映画の歴史、ひいては映像技術史を遡って行き着くのが、カメラ・オブスクーラである。ジョナサン・クレーリーは「近代化する視覚」においてこう述べている。
カメラ・ オブスクーラは、科学者にとっても、芸術家にとっても、経験主義者にとっても、合理主義者にとっても、何よりもまず客観的真理に 近づくことを保証する装置であった。カメラ・オブスクーラは、経験的現象を観察するモデルとしても、反省的に内観や自己観察をするモデルとしても重要だったのである。(...)デカルトにとってカメラ・オブスクーラとは、観察者が「もっぱら精神の知覚によって」世界を知る方法を説明するものであった。(…)カメラ・オブスクーラは、世界をありのまま客観的に見ることを土台として知を築こうとするデカルトの探求に、ぴったり合っている。カメラの孔は、数学的に規定される一点に対応している。そして、その一点から世界は論理的に演繹され表象される。自然の法則(すなわち幾何学的光学)にもとづくカメラ・オブスクーラは、こうして世界に対する絶対確実な視点を与えてくれた。身体に左右されるほかない感覚的証拠は拒否され、この単眼用の機械装置によって作り出された表象こそが、疑う余地なく正しいものとされる。(クレーリー「近代化する視覚」『視覚論』槫沼範久・柴田元幸訳、テオリア叢書、2002年、55-59頁、強調引用者)
「身体に左右されるほかない感覚的証拠」を拒否するカメラ・オブスクーラは、マーティン・ジェイがいうところの「デカルト的遠近法主義」に他ならない。そこでは、「世界を〔客観的な〕知の対象とすべく、主体は世界の外側に位置し、歴史には属さず、中立的 で、身体を欠いたものと前提される」のである。(マーティン・ジェイ「近代性における複数の「視の制度」『視覚論』、31頁、強調引用者)
視覚文化論においては、カントの『純粋理性批判』による「コペルニクス的転回」以降、「視点の転換」が行われ、「カントの仕事の余波のなかで、観察者としての主体の透明性は、もはや後戻りできない形で曇ってゆく」とされる。それは、「可視的なものが、 カメラ・オブスキュラの無時間的秩序を逃れ、人間身体がもつ不安的な生理機能と時間性とい う新たな装置のなかに埋め込まれることになる瞬間なのである」。身体を持たない透明な主体から、身体を有する不透明な主体へ。(クレーリー『観察者の系譜』遠藤知巳訳、以文社、2005年、110-112頁)
美術史においてはこうした「視点の転換」が印象派の仕事につながっていき、表現主義構成主義、そしてキュビズムなどに到るのは周知の通りである。またクレーリーらの議論においては身体性を抹消するとされていたカメラ・オブスクーラにしても、ロラン・バルトの『明るい部屋』などを見れば明らかなように、少なくとも「それは=かつて=あった」ものとしての事物や身体と結びついていた。
しかし、インターネットメディアの誕生は、こうした美術史や映像技術史を逆行させるものに他ならなかった。すなわちインターネットメディアは、「デカルト的遠近法主義」を復権させたのである。
こうした議論は、カール・シュミットマルティン・ハイデガーのような右派からであれ、あるいはアンリ・ルフェーブルなどの左派からであれ、既になされてきている。しかし、ここで僕は彼等の疎外論的な議論構成に与するつもりはない。彼等が目指しているのは「大地」(シュミット)であれ、「故郷」(ハイデガー)であれ、「都市」(ルフェーブル)であれ、直接性の復権である。しかし直接性とはまさしくインターネットメディアがもたらしているものではないだろうか。インターネットメディアというハイパーパノプティコンによって自身の身体とそれが眼差し、知覚するものとの距離=間接性が失われたからこそ、僕達は直接性のもとにあらゆる光景を享受することが可能となった。しかしそれは同時に、距離=差異を抹消することによって僕達の身体と対象を同一化させた。身体と対象の距離が失われたとき、見ることは自明なものとなり、身体は見ることをやめる。僕達は何かを見ているが、しかしその実、何も見ていない。それ故、技術による直接性の疎外という図式は、インターネットメディアとの共犯関係に終始する。
僕達に残された道は、インターネットメディアを廃棄することではなく、その中に間接性を取り戻すこと、すなわち、身体や眼差しと、スマートフォンやPCのスクリーンの間にあるかなきかの微かな距離を再び取り戻すことである。
その為には、デカルト的主体の外に別の主体を擁立するのではなく、デカルト的主体を――もはやクリシェと化してしまったこの語をあえて使うならば――「脱構築」しなければならない。以下に見ていくように、実のところ、デリダに先んじてデカルトを「脱構築」したのは、他ならぬ、デリダの最初の「脱構築」の対象となったフッサールであった。
フッサールは『デカルト省察』のとりわけ第五省察において現象学独我論であるという批判をかわすため、他者論を論じているが、そこでフッサールは他者経験を以下のように記述する。
ここで次のように仮定してみよう。私達の知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初的に還元して言えば、私の原初的自然の知覚の場に或る物体が現れ、それは原初的な物体としてもちろん、単に私自身を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。この自然と世界のうちでは、私の身体が、身体(機能している器官)として根源的に構成されている。また構成されることができる唯一の物体である。だから、そこにある物体(他の人間)はなるほど身体として捉えられているが、それはこの(身体という)意味を、私の身体の把握からの転移によって得るのでなければならない。(...)私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、前者を他の(他人の)身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるというのは、初めから明らかである。(フッサールデカルト省察浜渦辰二訳、岩波文庫、2001年、198-199頁)
こうしたフッサールの議論は、たとえばレヴィナスなどによって「〈他〉を〈同〉に」、「外部性」を内部性に還元するものだとして批判されてきた。しかし、果たしてそうなのだろうか。デリダは「暴力と形而上学」においてこう述べている。
フッサールの最も中核的な肯定は、他者を他者として目指す志向性が不可避的に媒介的な性格を有していることに係る。(...)他者が、根源的な仕方で、ありのままに私に与えられうるなどということは決してなく、ただ類比的現前化によって自我に与えられるというのは明白である、(...)類比的準現前化に依拠することの必然性は、他の同への類比的で同化主義的な還元を意味するどころか、分離ならびに(非ー客体的)媒介の乗り越え不能な必然性を確証しかつ尊重するものだ。私が類比的準現前化の道を通って他者に達するのでないなら、私が無媒介的かつ根源的に、沈黙のうちに自己自身の体験との合一によって他者に達するのなら、他者は他者であることをやめるだろう。 (ジャック・デリダエクリチュールと差異』合田正人・谷口博史訳、法政大学出版局、2013年、242頁)
しばしば勘違いされているが、フッサールの議論において他者、あるいは対象が「根源的な仕方で、ありのままに私に与えらえれうる」ことなど決してない。それは彼の「射映」をめぐる議論を見ても明らかである。故にデリダはこう述べるのである。
視覚が根本的かつ本質的に内部性と外部性の非十全適合であることを、超越的で延長的な事物の知覚は本質からして永久に未完成であることを(...)フッサールよりも執拗に示そうと専心した者がいるだろうか。(『エクリチュールと差異』234頁)
視覚、知覚の明証性には実のところ、つねにすでに「射映」がはらまれている。それ故に「類比」が必要となるのである。「類比」は同化ではなく、むしろ異化に他ならない。すなわちフッサールの議論において身体とは直接性ではなく間接性として捉えられているのである。
この身体という空間性の問題は、言語の問題にもつながっている。レヴィナスは、〈他〉や「外部性」、すなわち他者の「顔」と「無限」を語る上では、空間的(!)隠喩を排さなければならないとする。しかし、デリダはこう述べる。
[では]なぜ、「外部性」という語(この語は、それがひとつの意味を持ち、代数的xではない以上、空間ならびに光と執拗に係わっている)をなおも使用しなければならないのか。(...)全体性の言語のなかで、全体性に対して無限が有する過剰を語らねばならないということ、〈同〉の言語で〈他〉を語らねばならないということ、(...)これはおそらく、〈内〉ー〈外〉の構造にまずもって移送される必要のない哲学的ロゴスなど存在しないということを意味しているのだろう。(...)空間的断絶なき言語を再発見することはできないだろうし、仮に再発見されたとしても、そこでは他性がより確実な仕方で失われてしまうだろう。(『エクリチュールと差異』219頁)
こうした言語の(無限を語れないという意味での)有限性をデリダは「起源的有限性」(『エクリチュールと差異』221頁)と述べている。
ところで、身体とは有限的なものである。A地点からB地点へと直接的に身体がたどり着くことはなく(つまり偏在することはできず)、そこでは必然的に距離が介在する。身体とそれが眼差し、知覚するものとの間には不断に距離が入り込む。こうした意味で、デリダが言語に与えた「起源的有限性」は身体にも刻まれている。フッサールにとっての身体とは、他者との分離、ひいては〈距離〉を指し示すもの、自己と他者を断絶しつつ媒介する〈敷居〉(ベンヤミン)に他ならない。フッサールはコギトの明証性というデカルト主義にもとづきつつも、それを間接性によって脱臼したのである。
ところで、宮川淳は『鏡・空間・イマージュ』においてこう述べている。
距離は見ることの可能性である。 見ることが可能になるためには、わたしと対象との間に距離を必要とする。 それはわたしのイニシアチブに属し、またそのこと自体によって、同時に対象に属するものとなる、いわば透明で、機能的な空ともいえるだろう。 わたしはいつでも、その距離を消させ、見ることをやめる(それはあくまで見ることの可能性に属し、いやその可能性そのものを基礎づけている)ことができる。だが、この見ることの可能性にほかならなかった距離が、突如、 ほとんど実体的な空虚として不透明に凝結し、わたしと対象との間に立ちはだかる。それはもはやわたしのイニシアチブに属さないばかりでなく、また対象にも属さない。 わたしは対象にふれることによってそれを消滅させること、つまり見ることをやめることができない。距離が見ることの可能性であるならば、〈見ないことの不可能性〉 (モーリス・プランショ)それが鏡であり、その魅惑なのだ。なぜなら、魅惑とはまさしくわれわれから見 ることをやめる可能性を奪い去るものにほかならないのだから。
この見ることをやめることのできない、閉じることを忘れてしまったが見ているもの、それはまさに映っているもの、対象のものではもはやなく、イマージュ、すでにそれ自体イマージュと化してしまった対象でなくてなんだろうか。
いや、すでに鏡がそれ自体イマージュと化した空間だろう。それゆえにこそ、この距離は横切ってゆく ことができない。鏡のなか、それはイマージュの魅惑の体験なのだ。そして魅惑そのものが鏡の危険な力にほかならない。鏡のなかに落ちる。だが、われわれはどこに落ちるのか。 イマージュの空間、それ自 体イマージュと化した空間。 われわれがそこから排除され、近づくことのできないこの純粋外面の輝き、鏡。(宮川淳『鏡・空間・イマージュ』、風の薔薇叢書、1987年、13-14頁
宮川淳の『鏡・空間・イマージュ』にはブランショ的思考が通底しており、実際このイマージュの経験を宮川はブランショ的意味での「死」になぞらえている。ところで死とは有限性に他ならない。距離が身体の空間的有限性を示すものであったとすれば、死とは身体の時間的有限性を示すものである。では、イマージュの空間、鏡とは、「起源的有限性」を刻まれた、フッサール的意味での身体以外の何であろうか。身体にはこうした「起源的有限性」が刻まれている為に、「この距離は横切ってゆくことができない」のである。ブランショハイデガーと共に多大な影響を与えたヘーゲルについてデリダはこう述べている。
ヘーゲルは、目は欲望を「消費する」ことを目指しているのではなく、一時中断するのだと考えていた。目は欲望の限界そのもの(まさにそれゆえ欲望の資源)であり、その最初の観照的感官である。光ならびに目の開けを思考しなければならないのは、何らかの生理学を起点としてではなく、死と欲望の関係を起点としてである。(『エクリチュールと差異』194頁、強調引用者)
ここで再びJアラートの問題に立ち戻れば、それはミサイルの恐怖、そしてその先にある死を利用しているかのように見える。しかし、果たしてそうだろうか。ヴィリリオは核による抑止というパラダイムをめぐってこう述べている。
つまり、[科学技術は]私達が死すべき存在であるというステータスを意識させないように、少しずつ意識させないようにしたのです。(...)大好きなベルグソンの言葉があります。「死はとりわけ偶発的である」。ですから実際には私たちが実質であり、偶発的なものとは死なのです。テクノロジー的対象でもそれは言えます。その事故とは、私たちがそれに対して持っている意識のことなのですから。事故を意識しないのならば、そのモノを意識しないことになります。つまり、テクノロジーの危機を。(...)死は意識を創造し、したがって政治的意識を創造するのです。(『純粋戦争』162-163頁)
防衛力強化、ミサイルにはミサイルを、という議論はまさにこの事故=死という偶発性を等閑視した上でなされているのである。
インターネットメディアという「兵站戦略」、統治術が猖獗を極め、空間=身体を抹消している今日、僕達はそれを取り戻さなければならない。しかしそれは直接性への回帰(=疎外論)であってはならない。それは、ハイパーパノプティコンとして直接性を供与し続けているインターネットメディアとの共犯関係に陥らざるをえないだろう。そうではなく、間接性としての、〈距離〉としての、〈敷居〉としての空間=身体を取り戻さなければならない。そのとき〈敷居〉は、僕達を(フーコーブランショ論「外の思考」の言葉を借りれば)「「外」の外」へと連れ出すだろう。それは、絓秀実が言うように「政治」の場に他ならない(絓秀実「詩(それ)の未来は、彼(エス)のものである。」『守中高明詩集』、現代詩文庫、1999年、159頁)。